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『軍帽』

           

 黒塗りの車がそっと郊外の店の前で停車した。店といっても木造作りで小さく、明かりがついていなければ、この夜の闇に溶けてしまっていただろう。

「旦那様、お時間があまり。」

運転手は後部座席のドアを開け、降りてきた男に呟いた。

「分かっています。ただ…」

「はい、決してお話の邪魔になるようなことはいたしません。お帰りまでこちらで待っております。」運転手が言葉を引き継いだ。

「頼みました」男は店―長年探し続けた帽子屋に入っていく。

運転手はまだ年若い当主の後ろ姿を静かに見守っていた。

「遅くなり、申し訳ありません。」

男が店に入ると、年老いた店主はゆっくりと立ち上がり、奥の工房から顔を見せた。

「いえいえ、こんな古びた店へ足を運んでいただき、ありがとうございます。」

古びた、とは言ったが、店内はアンティーク調に整えられ、古いものから新しいものまで品の良い品が揃っていた。思わず、その彩りに目を奪われる。

「さあ、早速ご用件を承りましょう」

男は我に返って、持ってきたアタッシュケースを開くと、中から一つの軍帽を取りだした。

「これを本当の家族の元へ返したいのです。」

もう既に、その役目を終えた軍帽はところどころ形が崩れ、色が剥がれ落ちていたが、ずっしりとした重みがある。慎重に店主に手渡した。

「…間違いありませんね。最初にお電話でお聞きした通り、青年将校用の軍帽です。…ふむ、礼装用ですか」

店主は眼鏡をかけ直し、工房に戻るとじっくり観察を始めた。

「はい、そのように聞かされています。先々代の当主、私の祖父の弟に当たる人ですが」

顔に傷を残したものの、無事に戦地から戻ってきた先々代は、戦友の遺品だという軍帽を大切に保管していた。周りが持ち主の家族に返すよう勧めても、「これは彼との約束の証だから」と言って譲らなかった。

「ここに改造した後がありますね。」店主が軍帽のトップ部分、頭の上にくる平らな部分を指さした。一部が破れ、中に仕込まれた金属がちらりと見える。

「中に何かマークが見えませんか?」

「うーん、確かにうちの店の意匠のようですな」

「やっぱり…!」

男はほっと胸を撫で下ろした。軍帽の元の持ち主を探そうにも手がかりはなく、ちょっとめくってみたり、透かしてみたりしていたところ、マークを見つけ、そのデザインからこの帽子屋を探し当てたのだった。

「ここの布地は張り替えられていますね、支えの金属板の下に何かあるようです。」

店主はさらに軍帽を探っていく。「解体なさりますか?」

「お願いします」男ははっきりと答えた。

「―聞いた話ですが、先々代はもともと争いや競争を嫌う人で、言葉にはしませんでしたが、家を継ぐことも、出兵するのも嫌だったそうです」

黙々と作業をする店主の横で、男は静かに語り出す。

先々代は、戦地から戻ると、人が変わったように家業に打ち込んだ。それも戦友との約束だと言った。元々の引きこもりがちな性格は変わらなかったが、そこは先々代の兄である、祖父が代わって立ち回った。自分に社交性はあっても家を盛り立てる程の才がないことを分かっていた祖父は、昔から才のあった弟に家督を譲り、兄弟で戦後の混乱を駆け抜けた。しかし、

「なぜか、先々代は結婚をせず、養子も取らずに兄の息子―私の父を次の当主に指名しました。そして現在は私がその役割を継いでいます。先々代が亡くなり、時が経ち、世代も変わった今、もう遺品を元の場所に返すべきじゃないのかと思った次第です。」

「これは…」店主が戸惑った声で金属板の下から何かを取り出した。じっと見つめたあと、男に手渡す。

「写真…ですか」

劣化が激しく、色も霞んでいたが、そこには家族とおぼしき人達が写っていた。

「この方達に見覚えは?」

「分かりません、それにこれは…」

どう見てもこの軍帽の持ち主のものとは思えなかった。

写真の中の人々は大人から子供まで質素な格好をし、「戦友」と思われる青年さえ、先々代とは異なる姿―下士官用の軍服を着ていた。

「…写真をお持ち帰りになりますか?」

男はじっと写真を見つめた後、店主を見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「いいえ、この軍帽と共にここに置かせてはもらえませんか。これ以上持ち主を探せそうにもありませんし、こちらのお店のマークがある以上、何かしらの縁があったのでしょう。」

男は頭を下げると店を後にし、走り出した車の中で、「もう大丈夫だろう」と呟いた。

店主は写真をしまい、軍帽を再び元の状態に縫い合わせると、そっと店の端に置いた。

七十年以上前、店主が写真の中の子供だったころ。戦地に向かう叔父は父に何かを呟いた。そして叔父が若くして戦死したと聞かされたとき、思い出したのだ。あのときの野心に満ちた目を。後は頼む、と言った、父にだけ託した言葉も。

若き二人の青年は何を思い、何をしたのか。

店主は考えるのをやめると、店内の明かりを消し、店を閉めた。

全てはもう過去のことだった。

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