俺はテーブルに置かれた2つの鰻丼を見て途方に暮れていた。
「喜んでくれると思ったのになぁ…」そっとつぶやく。
最近、いやずっと仕事が忙しかった。
妻の陽子もずっと機嫌が悪かった。
だから最近はあまり話すこともなく、日々がただ過ぎていった。
そんな家庭と仕事の往復で不満が溜まらないわけがない。
俺は毎日のように愚痴を140字の呟きにぶつけていた。
数日前に遡る。
「お前の呟き、ブロックしたぜ」
久しぶりに会った大学時代の友人と、居酒屋で飲んでいたときだった。
「え?なんでだよ?」
聞きながらビールを流し込む。
「飲みすぎだって。加減しろよ、このご時世なんだから」
「もう飲んでる時点でアウトなんだよ」
ジョッキを掲げて言った。
「はぁ、それだよ、それ。愚痴と屁理屈ばっかり言って。陽子ちゃんと付き合っていた頃の『惚気呟き』でウザかったときのほうがましだよ」
すみませーん!お勘定お願いしまーす!
あきれた声で友人は先に帰っていった。
「あー、飲み足らねぇ…」
居酒屋を出た後、フラフラと歩いていると、明るいコンビニの光が目に入った。
「酒買って帰るか!」
お気に入りの缶ビールを持ってレジに並ぶと『土用の丑の日』のポスターが目に入った。
「…ん?」
「お待たせいたしました。こちらのレジへどうぞ。」
「あ、はい。あ、袋ください」
レジのお姉さんはキビキビ働いている。
「かしこまりました。鰻の予約販売のチラシも入れておきますね。」
「…んん?」
「よろしいですか?」
「あ、はい、おねがいします。」
何が引っかかるんだ?
帰宅後、キッチンで缶ビールを飲みながら、静かに鰻のチラシを見て考えていた。
「何か思い出しそうなんだけどなぁ」
「…帰ってたの?」
パジャマ姿の陽子がキッチンを覗いている。
「あ、ごめん。起こした?」
陽子が首を振る。
「ううん。また飲んできたの?」
「大丈夫だって。ちゃんとワクチンも打っているし。」
陽子がまた溜息をついた。
「そうじゃないんだけど、もう、ほんとに気を付けてよね」
「うん、わかってるよ。おやすみ」
怒って寝室に戻るだろうと思ったが、陽子は動かない。
じっとこっちを見ている。
「…?」
「それ、珍しいわね。」
鰻のポスターを指さして言った。
「ああ、コンビニでもらったんだ。」
「なんだ、そっか…。じゃあ、おやすみ」
陽子の声がちょっと寂しげだった。
…ん?待てよ、確か…。
俺はスマホから自分の呟きを一気に遡った。
あった!
見つけた写真の中に笑顔の陽子がいる。
5年前の土用の丑の日だ。
そう、一度だけ、陽子と鰻丼を食べたことがあった。
そこは鰻の好きな陽子の行きつけのお店だったらしい。
あの日は初めてのデートで、俺はその食事の帰り道で告白したのだ。
だから、あの店の鰻丼なら、陽子も喜んでくれるだろう。
土用の丑の日に買って帰って、サプライズで一緒に食べよう。
そのはずだった。
「今日、ワクチン接種日だったのよ…前は熱、出なかったけど、今回は無理みたい…私は食欲ないから、あなたは適当に食べて」
陽子は寝室から出てこなかった。
「…接種日のこと、言ってくれれば良かったのに。」
「言ったって、どうしようもないでしょ…」
確かに『今日』じゃなかったら、どうもしなかったかもしれない。
俺は静かに寝室の扉を閉めた。
テーブルに置かれた鰻丼は、どんどん冷えていく。
…俺だけでも食べようか。
そう思って、割り箸を割ったときだった。
『ピンポーン』
インターホンが鳴った。
何だ?こんな時間に?
モニターをつけると、板前さんのような白い服と四角い帽子が見えた。
『まいどー鰻屋でーす』
さっきの店の店員か?
不思議に思いながらも俺はドアを開けた。
「いやー、遅くにすいませんすいません!」
入ってきたのは大学生くらいの若い男だった。
アルバイトかなんかだろう。
「せっかく鰻丼をお買い上げいただいたのに、当店自慢のこの、山椒をお渡しするのを忘れてしまいまして!もーしわけございません!」
話し方がチャラい。
チャラいバイトは山椒の瓶を差し出した。
手にとって思い出す。
そうだ、これも陽子が好きだった。
『お店こだわりの山椒』とかいうやつで、熱々の鰻にかけると、湯気とともにさらに香ばしい匂いがたつ。この組み合わせが堪らないと目を輝かせていた。
だけど…
俺は手渡された瓶を握り込んだ。
そんなことまで忘れていた。
好きだった食べ物だけ、お店だけ覚えていたって仕方ない。
本当に大切なのは思い出なのに。
しかも、その思い出のお店だって過去の写真から探し出したものだ。
…それでご機嫌とりなんて、馬鹿だよなぁ。
「あのぉ、お困りでしたら、お手伝いしましょうかぁ?」
「何言って…は?え?あんた、服は?」
バイトの服が変わっていた。
割烹の制服から、スーツに変わっている。
いや、色は白のままだ。
全身、白のスーツに白のシルクハットをかぶっていた。
いつ着替えた?どうやって?
「それは、どーでもいいじゃあないですか!」
喋り方はチャラいままだ。
「大っ切な思い出の品のお渡しを忘れてしまったお詫びに、サービスいたします。お願いごとを聞きますよ〜」
男が詰め寄ってくる。
「な、なんだよそれ!たかがバイトに、何ができるって言うんだよ!」
「バイトではないんですが…まぁ大概のことはできますよ?」
こいつ、からかってるのか?
「からかってません。真剣です。そうですねぇ、例えば、お二人をその写真の時期に戻して差し上げることができます。」
男は得意げに胸を張っていたが、俺はもう怒る気にもならなかった。
「わかったわかった。もういいよ、じゃあ、このときまで戻って、アカウントを凍結させてくれ。これ以降はいらないから。なかったことにしてくれ。」
…愚痴ばっかりの呟きなんて、もういらないよな。
「あー、それはですね…」
「なんだよ?できないのか?」
「もちろんできます。で、す、が!その前にお伝えすることがございまして…」
「いいから、早くやってくれ!」
もう苛立ちを隠せなかった。
「ったく、焦った人間はほんとに人の言うこと聞かねーな」
男が顔をしかめている。
「…何だと?」
「じゃあ、そのお写真の後はアカウント凍結でいいですね?やりますよ?一瞬ですからね!」
男はどこからともなく取り出した杖で床を『ドン』とついた。
瞬間、フラッシュに包み込まれたように、あたり一面が真っ白になった。
男がシルクハットの下でニヤリと笑うのが見える。
が、それも光ですぐに見えなくなった。
目を開くと、懐かしい部屋の中にいた。
「ここって…」
俺が独身時代に住んでいたアパートの部屋だ。
古いテーブルの上には鰻丼が1つだけ置いてある。
どういうことだ?まさかあいつ、本当にあの写真の日まで時間を戻したのか?
鰻丼の横には俺のスマホがある。急いで電源を入れた。
「…?」
変わっていない。
今日は今年の土用の丑の日だ。
…そうだ、陽子は?
「陽子?いるのか?」
俺のベッドも見たが、いない。
この小さなワンルームには俺しかいなかった。
どうなっているんだ?
頭を抱える。
あの男もいない。
ふと気がつくと山椒の瓶が床に転がっていた。
俺の頭に男の言葉が蘇ってくる。
『その時までアカウント凍結でいいですね?』
震える手でSNSを立ち上げる。
美味しそうに鰻丼を食べる陽子の写真を最後に、呟きは無くなっていた。
はっと気づいて、連絡先の一覧を探しても陽子の電話番号はなかった。
そうだ、鰻を食べた日、その帰り道で連絡先を聞いたんだった。
あの写真以降の記録がなくなっている。
左手を見ると、結婚指輪もない。
つまり、あの写真以降の出来事、呟いた事実は消えてしまっているんだ。
凍結したこのアカウントのように、俺の人生もこの時点のまま止まっている。
俺はその場で崩れ落ちた。
そうか。
陽子と結婚しなかったから、独身のままアパートに住み続けていて、鰻丼も1人分しかないのか。
「は、ははっ」
乾いた笑い声とは逆に、涙が落ちて止まらなかった。
アパートの屋根の上。
同じく、白いスーツとシルクハットをかぶった少女が降り立った。
「ちょっと!あんた、またふざけてんの?」
遠く、夜空を見上げていた、くだんの青年が、ゆっくり振り返る。
「あっれー?美沙ちゃん、戻ってきたの?彼氏に会ってきたんじゃなかったの?」
ニカっと笑う。
「名前で呼ぶなって言ってんでしょ。あと、私あんたより年上だからね。会ってきたのも彼氏じゃないし。」
「あー、『まだ』だったね。」
「違うわ。『もう』ずっと違うのよ。前からわかっていたことよ。」
快活な声が少し陰る。
「あたしのことはいいの。…あんた、またやらかしてないでしょうね?」
「…んー、ちゃんと話そうとしたけど、聞かなかったのは本人だからね。」
青年は視線を逸らして言った。
「人の人生を途中から消したくせに、呑気なことね。」
「…まぁまぁ、結婚した事実はなくなってしまったけれど、一番の思い出は消えてない。
これからどうするか、だよ。早めに気づけばいいけどね。」
「…さて、ねぇ、美沙ちゃん。あったかーい鰻丼食べに行こうよー」
「あんた、ほんとに馬鹿じゃないの。」
そうして、二つの白い影は消えた。
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