目的の河原までは遠い。家を発つ時に感じた僅かな日差しは、車を降りると消えていた。曇天で吹く湿った風が、頬を触っていく。着慣れないダークスーツのジャケットは早々に脱いでしまった。それでも、息苦しさは拭えない。背中が重かった。ゆっくりと歩き出す。
道の途中に休憩処がある。『軽食・喫茶』、『釣り道具・エサ』と古い立て看板が並び、入口の扉には『閉店しました』の貼り紙が揺れていた。それらを横目に、進んでいく。
「こらっ、そこから下りなさい。川遊びは危ない。誰か一緒じゃないのか」
つい、いつものように怒鳴ってしまった。
男の子は慌てて橋の欄干から飛び降り、釣竿を引いている。
前にも、ここから川へ飛び込んで遊んでいる若者に説教をしたことがある。悪びれない若人とは違って、泣きそうな男の子を見て、しまった、と竿を持ったまま頭を抱えた。
「ご、ごめんなさい。でも、店にいても邪魔だから遊んできなさいって」
俯いて答える声が寂しそうで、精一杯穏やかな顔をつくる。
「あぁ、もしかして下の休憩処のお子さんか。おじさんはいつもお菓子を買わせてもらっているよ」
「鮎?みんな買っていくよ」
「そう、若鮎。大人気なんだね。すごいね。おじさん、なかなか自分で鮎が釣れないから、代わりにお菓子をたくさん買って帰るんだよ」
ようやく辿り着いた橋の袂、河原の隅に献花する。ジャケットを正して、手を合わせた。
「豪華な花束だな」
「わっ」いきなり傍で声がした。驚いた拍子に尻餅をつく。いつのまにか、傍に釣り人が立っていた。見えていなかった。
「ほら、川は危ないって言っているだろう」
「す、すみません…」慌てて起き上がる。
「全く、此処は良い釣り場なのに、人が減ったもんだ」そう言って、釣り人は竿を振った。
「…事故がありましたから」
糸が水流に引っ張られていく。今日の川は穏やかだ。「事故?」
「…橋から子供が川に落ちた。釣りに来ていた男性がその子を助けたけれど、男性は亡くなった」声が震える。
「子供はショックから、川に落ちた前後の記憶は曖昧で、事故は日常的に川で遊んでいた子供の不注意、として終わりました。だけど…その子は信じられなかった。あの時、何かに突き飛ばされた気がするんです!」
背中が、疼く。
「調べました。事故の二日後に隣町で、逃亡中の強盗犯が、飛び出した道路で車に撥ねられて…死亡しています」
釣竿がぴくりと揺れた。
「…その強盗犯は川での事故があった日に、この町で目撃されています。そして、隣町に行く最短のルートはあの橋を渡ることです」
「すごいね、君。警察官志望なのかい?」釣り人は笑った。
「いいえ、僕は和菓子職人の修行をしています。でも、あなたは…おじさんは警察官だったんですね」
男の子と別れ、橋を渡った先で不審な男とすれ違った。すぐに、ある指名手配犯の顔写真が浮かんだ。
「あ、お前…」言い終わらないうちに、男は逃げた。「待て!」来た道を戻り、再び橋にさしかかる。
「危ない!」男の子はまだ、さっきと同じ場所にいた。振り返った表情が固まっている。
「おらっ」男が子供の背中を強く押した。ほどなく橋の下から大きな水音が上がる。
「早く助けないと溺れちまうぜ」言い残して強盗犯は走り去る。
急いで欄干を掴んで見下ろす。流れていく、小さな身体。浅瀬まで走る時間はない。着ていたライフジャケットを握りしめ、水面へ飛び出した。
時を経て、改めて頭を下げる。
「すみませんでした。あの時、すぐ家に帰っていれば良かった。…突き落とされたなんて、僕の妄想かもしれません。あなたの死を自分のせいにしたくなくて…」
「妄想ねぇ…君はもう、ちゃんと自分の足で答えを見つけたんじゃないのか」
はっと顔を上げた。再び差しだした日の光が、おじさんの姿を透かしていた。
「君のせいじゃない。せっかく助けることができたんだ、幸せになってくれないか」
穏やかな声も風に流れて消えて行く。
「なあ、また一匹も釣れなかったし、これからは君が作ってくれよ、鮎のお菓子をさ。」
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